神明社には四代富田重助と神野三郎の頌徳碑もあります
神野新田の最も重要な位置にある堤防の上に、明治28年(1895年)、多くの篤志家(神野富田両家の多くの関係者も)の寄付により、大日如来を起点として西国三十三所の護岸観音が100間(180m)ごとに建立された。 これらの石像は全て海を背にして新田を見守ると共に、 観音様をお参りする人々に堤防の破損箇所を早く見つけて通報してもらう目印の役目も担っていた。
▶ 神野家寄進の観音様
神野家は、悦三郎、金平、三郎、清児の外、叔父の関係先からも寄進されている
▶ 観音様の寄進者情報は下の画像クリックでリンクします
初代金之助翁(紅葉屋財閥)が寄贈された寺の山号が「神富山」、神社も内宮が「神富神明社」と神野・富田の名を拝しており、神富神明社には初代金之助翁、四代富田重助翁、神野三郎翁の頌徳碑もあります。
下のタイトルをクリックすると、それぞれのホームページにリンクします。
・本堂仏間の右奥に神野家と富田家の位牌が10柱ほど祀られていたが詳細は未確認。
初代金之助翁と四代富田重助翁の法事を幾度と圓龍寺で行っており、お二方の位牌もあるはず。
・本堂の「紅葉」が、紅葉屋財閥(神野家・富田家)との深いかかわりを現わしている。
・鬼瓦は初期(改修前)のもので、中央に「紅葉」があしらわれている。(軒瓦にもあるよう)
・二重梁の中央の支え部に「紅葉」があしらわれている。
・神野新田生まれの森清治郎画伯の父(清一)は江西の出で、長男でありながら移住して新田開拓当初から
工事に携わり、神野家とも親交があった(森清治郎は神野家の支援でヨーロッパ留学した)
・森清治郎画伯の神野三郎翁の追悼録に神野新田の法被(ハッピ)の記述があり、それを再現してみた
・下の右の文字画像が森清治郎画伯の追悼文、左側が法被が追悼文より推測して再現した法被
・神野新田物語 第一話(2020.07.04-05)がユーチューブで無料公開されてます
・神野金平、初代金之助、神野三郎がメインの登場人物です
・下の画像をクリックすると、別窓で動画が再生(ネットがつながっている場合)されます