初代金之助の人柄

▶ 体格

 ・明治42年、60歳で参加した渡米団の同行紀に身体情報が書かれているが、下の右の写真がその数年前で

  あり、理想的な体格に見える(5.65尺 ≒ 1.71m、1.59貫  59.6Kg、渡米団で3Kg痩せたとある

 ・神野新田の工事で自らも働き、大兵肥満が痩せたと「神野金之助重行」に書かれているが、下の左が

  その5年後のものであり、当時に肥満であったとは思えない(大変な作業だったとの脚色だと思う

50歳位

57~58歳



▶ 明治22年発行の書籍にある神野金之助


▶ 神野金之助重行から

宮部圓成師嘗て語って日ふ「自分は江州出身で、當年七十八歳になるが、本山に入って布教使を勤めた頃から、金之助翁父子と相知り、明治三十九年、現如上人(光瑩)の特旨により、候補者数人の中より選ばれて圓龍寺住職となったのである。

是れは先大人金平翁の遺旨もあり説経の出來る僧侶を必要としたからであった。

自分が新田に來た頃は小作人の家は二百五六十戸であったが、其頃木曾川改修工事に依りて立退きを命ぜられた農家が移住した者などが、冬の小作納期が済むと或は北海道へ轉住するとか、或は遠州三方ヶ原の豊饒地を慕うて去り行行く等、毎年五・六戸は絶えなかった。

又新田の農家は初の頃は屑葺の屋舍であったが、其後次第に瓦葺と爲り、年一年と農家が安定した。

ひと頃は夜分に風強く吹さて松の梢が濤の音に聞えると、ソレ洪水だ海嘯だと騒ぎ立てたものだが、一年と安定するに從って、嚮に北海道其他に去った小作人等も段々帰を希望する様になって来た。

二人講が出来てから後は、農民の貯蓄出來、大に生活に安心してゐる。

自分の聞いた所では、二人講は當主金之助氏の發案で神野三郎氏が之を贊助したものである。

畢覚新田住民の安定して今日の平和郷を見るに至ったものは、彼の雄大強固なる大堤防が竣成の後、年を經るの久しきに随って住民に大安心を與へた果であると信ずる。」云々。

宮部師は又日ふ「先代金之助翁は、新田青年の會合せる場所などに於て能く演説したが、要旨は租先を大切にする事、親に孝行をする事、夫れには宗教を信じなければならぬ事を骨子として親切に説き教へ、夫れが殆ど口癖のやうで有った」と。 翁の敬祖追孝の事蹟は別條に詳述する所であるが、此一話を以てしても、翁一代の事業が奉佛の真心から出発しているを想像するに難からぬのである。


▶ 長坂理一郎の豊橋「昔はなし」から

 ・豊橋札木町に豊橋市一の料理屋といわれた「千歳楼」があり、明治から昭和にかけて「長坂理一郎」が

  主人を務めていた

 ・その「長坂理一郎」が語った昔のエピソード集が「昔はなし」で豊橋新聞が発行した

 ・「長坂理一郎」は「初代金之助翁」とも面識があり、毛利新田や神野新田の話も収録された中の下記の、

  5つを「初代金之助翁」の人柄として掲載しました

 ・その他の毛利新田を含むエピソードは、ここをクリックすると該当にリンクします

 ・なお、神野三郎翁も「長坂理一郎は面白い人だ」と語っていたと「神野三郎伝」に書かれている

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「昔はなし」その69    神野家の番頭と争う

 

 毛利新田についで神野新田が完成した御祝いのおりのことです。神野家の番頭が「名古屋は白いおこわを用いるから」と白いおこわを私の方へ注文されました。私はまたこんな性分ですから「名古屋の習慣はどうかしらないが、豊橋では赤いおこわをくばることになっているから、おこわは赤いのをつくる」といって、どちらが注文主だかわからないようなことになりました。神野家では「まあいいように……」という御話でしたが番頭さんが説を曲げないのです。私も曲げないのです。どうなるかと内心は私も心配したのですが、とうとう両方の説に顔を立てるようなことになりました。つまり、名古屋風と豊橋風のおこわを半々ずつつけたわけで、出来上ったものは紅白の彩りでかえつて立派なものになりました。

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 「昔はなし」その70    六十人でこわ飯行列

 

 さて、神野新田の祝いのおこわを車で曳いていけば、おこわも御料理もごっちゃになってしまうので、どうしたらよかろうかと苦心しました。結局、当時の大家には必ずあるかご長持というのを用いました。かご長持というのは大、中、小で一組となっていますが。これを五組こしらえました。つまり、長持十五個というわけです。この十五個の長持を家の出入の大工さんや車力さんにになわせたのですが、十五個の長持には六十人の人間が必要でした。つまり、一つの長持に四人ずつ要しますからね。この六十人に千歳楼と染めぬいた揃いのはっぴを着せて、千歳楼と染めぬいたゆたんをかけて、牟呂の神野新田まで行列をつくって出かけたのは、私から言うとおかしいが壮観のきわみでした。おこわの行列として、こんな行列は前代未聞だったでしょう。

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「昔はなし」その71    先代の神野さま

 

 神野新田の話のつづきですが、私は先代の神野金之助さまにお目にかかっています。頗る信心深い御方で名古屋で市電がまだ通らぬ夜明けに、毎朝御一人徒歩で本願寺へ参詣されていたと聞いています。言葉の少ない方で、名古屋へ市電ができてからも、電車に乗らずに、てくてくと歩いておられたようです。タバコは喫われませんでしたが、伺えば用意してあるタバコを人にはすすめるという御人でした。私が新田の方へ伺ったとき「御主人と食事をしていってくれ」という御宅の方の御話に「恐れ入ります」と言葉に甘えて食事をいただいたことがあります。そのおりでも、私を上座に座らせ、しかも、手伝いの百姓たちの作った心のこもった料理でした。私は食事をいただきながら「立派な人だ、温い方だ」と感じました。

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「昔はなし」その172    先代神野翁の料理

 

 神野新田が完成して榎本武揚が新田を視察にやってくることになったとき、接待の打合せで先代の神野金之助翁から私は牟呂へ呼ばれました。話がすんでから「食事をしていけ」ということでありました。「さあ一緒に食べよう」と私は上座に据えられ、お膳が出ました。そのときの献立はさくら海老の煮つけ、おつゆ、焼麩にのりでした。お膳のそとはナスの焼いたのに沢あんでした。しかも当主の金之助翁も、従業員も、私もみんな同じ献立で、上下もないのに、なるほど、これは、大へん立派なことであると私はたいへん感心したことがあります。


▶ 明治42年の渡米団でのエピソード

団員を動物に例えたら

失敗談



▶ 現代名家信仰の告白 大正2年 より