神野家・冨田家の東本願寺への寄進

▶ 鐘楼は石垣は金平夫婦名義、上物は金之助名義であった

「能仁新報」よりみた名古屋の仏教(三)

  明治25年1月~明治25年12月  222頁『神野金之助一手寄進の鐘楼』

  http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_13F/13_60_4F/13_60_4_270.pdf

  神野金之助一手寄進の鐘楼〔明治9年1月9日 第134号] 


 

去る23日の号外を以て市内の読者に報導せし、名古屋市鉄砲町の神野金之助氏が今回、真宗大派本山の鐘楼を一手にて寄進せらるゝに付、其の工事の予算を聞くに左の如しと云う。

但し石垣を除きたるものなり。

(基礎石垣一 式は金平夫妻名儀で寄進した)

 

合計         24,116円 5銭9厘

内訳 木材      11,485円48銭

      大工彫物      9,800円

   鍛冶              252円90銭 

            屋根                1,310円93銭4厘

   雑用                1,266円74銭5厘


【寄進した鐘楼の2万4千円(単純計算で4億以上)が凄い金額であることは以下を参照】

 ・明治25年に破堤により滅亡した毛利新田関係の工事費他が、40万円。

 ・明治26年4月に神野金之助が毛利新田の全権利を購入した額が、4万1千円。

 ・神野新田の工事、整備、その他の総経費は、90万円以上とも言われている。


 明治30年頃の給料

  小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらい。

  一人前の大工さんや工場のベテラン技術者で月20円ぐらいだったようです。

  このことから、庶民にとって当時の1円は、現在の2万円ぐらいと思われる。


鐘楼の模型と勅使門の写真などは神野新田の圓龍寺で展示されている


▶ 勅使門(菊の門)は神野家富田家の合同で寄進した

 ・工事は名のある棟梁他で、監修は芸術に明るい四代重助が自らがあたった


2018年に撮影の勅使門(菊の門)


明治43年以前の東側


大正5年頃の上記と同じ場所